それから更に数日後……。
「よーし、十五分休憩!」
「はい!」
「了解です、神田先輩!」
神田さんの一声で、稽古場の空気が一気に弛緩する。
おれはというと、直前まで神田さんにしごいてもらっていたおかげで、もうへとへとだった。
全身汗まみれで、体中の関節がぎしぎしいっている。
「速瀬、立てるか?」
「馬鹿にしないでくださいよ。このくらい余裕で……くっ」
勢い込んで立ち上がった瞬間、足がもつれて倒れそうになるのをなんとかこたえる。
呼吸を整えるのがやっとのおれとは対照的に、神田さんは涼しい顔だ。
「水持って来てやるよ。無理してねえで座ってろ」
そう言って、稽古場を出て行く神田さん。
強がりももう限界のようで、壁にもたれて深く息をつく。
神田さん、全然手を抜かないから、マジきつい……しかも向こうは大して疲れてないっぽいし……。
(こんな調子じゃ、いつになったら一本とれることやら)
神田さんはここの道場主の甥っ子で、毎日のように鍛錬を積んできているらしいから、そう簡単に追いつけるわけもない。
頭ではわかっていても、やはり『負けている』という実感があると、なんだか焦ってしまう。
「ほら、飲めよ」
戻ってきた神田さんが、水の入ったコップを差し出してきた。
氷がカランと小気味いい音を立てる。
「……ありがとうございます」
ここで意地を張っても仕方がないので、素直に受け取ることにする。
キンキンに冷えた水が火照った体に気持ちがいい。
新人だからある程度気を使ってくれているのか、神田さんはおれに対してほんの少しだけ甘い気がする。
他の練習生たちも、神田さんのことを尊敬していたり、憧れたりしているようだ。
無愛想に見えるけど、いつも真剣に向き合ってくれているのがわかるからだろう。
剣の腕もかなり立つし、それに顔も……結構いけてる方だろうし。
本人は興味なさそうだけど、この人、絶対モテモテなんだろうな。
(恭さんも、やっぱり神田さんのことを意識してたりすんのかな……?)
おれが初めて心を奪われた人。
あの人の笑顔が、いつまでも胸に残り続けて、忘れられない。
「また来てくれないかな、恭さん……」
「……あん? お前、樋口に来てほしいのか?」
「え? ……あ!」
し、しまった。もしかしておれ、口に出しちまってた!?
じとっとした目を向けてくる神田さんに、おれは上手く答えられず、もごもごしてしまう。
と、神田さんはやれやれといった風に小さく息をついてみせて、
「あいつの何がそんなに気に入ったのかは知らねえけどよ。あんなうるさいのは来ないに越したことはねえと思うけどな」
「う……うるさい……?」
「いつもオレのことをからかってニヤニヤしやがって。今度来たら、あのふにゃついた頬を限界まで引き伸ばしてやろうかって……」
「そ、そんなこと言わないでください!」
おれはほとんど反射的に、強い目で神田さんを睨み、はっきりと口にする。
「どうして恭さんにそんなに辛く当たるんですか! あんなに綺麗で優しい女性を、おれは他に知りません」
「なんでそんなつっかかってくんだよ、鬱陶しい……おい、お前からもなんとか言ってやれよ」
そう言った神田さんの目が、おれを見ていないことに気付く。
視線の先を辿って、振り向くと、そこにいたのは……
「き……恭、さん……」
「こんにちは、お二人共。なんだかぼくの話をしていたみたいですね?」
にこにこ笑顔で歩み寄ってくる恭さん。
おれはずずずと後ずさりしながら、熱くなる顔を少し背けた。
この人、一体いつから? どこまで話を聞いていたんだろうか。
「おい樋口、こいつ、お前が素敵な女性だからもっと丁重に扱えって言うんだよ」
「ば、バラさないでくださいよ!」
……って、馬鹿かおれは!! これじゃ白状したのと同じだろ!
「あら、嬉しいですね。ありがとう、千里くん」
「うぁ……ぅ……」
恭さんに感謝の言葉をかけられただけで、もう何も言えなくなってしまう。
せっかく笑いかけてもらってるのに、視線を合わせることすら出来やしない。
(おれのヘタレ……男らしさの欠片もねえ馬鹿野郎……)
意気消沈するおれを尻目に、神田さんはやや勿体ぶった感じで、
「あえて言おうとは思ってなかったんだけどよ。あんまり速瀬がうぜえから、はっきりさせときたいことがある」
「はい?」
「なんでしょう?」
おれと恭さんが同時に神田さんの方を向く。
と、神田さんはつかつかと恭さんのすぐ目の前まで歩いて行ったかと思うと、恭さんの服の裾を引っ掴んで、
「え? ちょ、神田く、」
そのまま乱暴にめくり上げ、胸の辺りまで露出させた。
おれの目に飛び込んできた、抱きしめたら折れてしまいそうなほど細い腰、ほとんど日焼けしていない真っ白な肌、薄く色づいた乳首……。
「な、何してんですか!?」
「わかったか?」
「わかったって、何がです!!」
「こいつが女じゃねえってこと」
「何が女じゃ……女じゃない?」
そのワードに、言葉の続きを言えなくなり、ゆっくり恭さんを見る。
そういえば、なんだか不自然なほど、胸のふくらみが控えめ過ぎたような……?
恭さんは「まったくいきなりですね……」と言いながら、服の乱れを直していた。
おれの視線に気付くと、少しだけ申し訳なさそうに曖昧に笑ってから、ぺろっと小さく舌を出す。
「えーと……確かに、ぼくは女の子ではないですね。この格好は趣味みたいなものです」
「そ……そん、な……」
あまりのショックに、膝から崩れ落ちてしまう。
初めて心を奪われた相手だったのに、よりによってそれが男だったなんて。
男が男を好きになるなんて、変だ。全然男らしくなんてない。
「千里くん……どうかしましたか?」
「こ、来ないでください!」
相変わらず綺麗な顔のまま、恭さんがおれの顔を覗き込んでくる。
「なんなんですかあなたは……どうして男なのにそんな格好してるんですか!? 男なのに、おかしいじゃないですか! 男らしくありませんよ!」
頭の中がぐちゃぐちゃで、八つ当たりとわかっていても言葉が口をついて出てきてしまう。
今言っているのは、おれ自身の単なるわがままだ。
そうわかっているのに、止められない。
「ぼくは……ぼくに合っていると思っている、ぼくの好きな格好をするのが一番いい。そう思っているからそうしているだけですよ」
「で、でもそれで勘違いされたりとかするじゃないですか」
「仕方ありません。それがぼくですから……。それに、ぼくって案外男っぽいところもありますよ」
そう言うと、恭さんは鼻と鼻がくっつきそうなくらいおれに顔を近づけてきて、
「ぼくはぼくのやりたいようにやってんだ。文句なんてつけんなよ……とか、言ってみたり」
くす、と悪戯っぽく笑ったその表情は、やっぱりどこも男っぽくなんてなかった。
だけど……。
「男らしさがどうとか、そんな曖昧なものに振り回されるより、自分のやりたいことを自分のやりたいようにやるとか……。自分の意志を貫く姿勢を持つ方が大切なことだと、ぼくは思いますよ」
「……あなたの中では」
――男が男を好きになるのも、ありなんですか?
おれのその問いに、恭さんはにっこり笑って、即答した。
「もちろんです。むしろ、推奨したいくらいですね」
「推奨はすんな、バカが」
ぺちんっ! と神田さんが恭さんの頭を軽くはたいた。
「ま、そういうことでわかったろ、速瀬。こいつはれっきとした男。だから扱いなんて適当でいいんだよ」
「……そうは思いません」
「は?」
おれは、恭さんに大切なことを教えてもらった。
自分の意志を貫く。簡単なようで、難しいことだ。
だけど、そう出来るように努力することなら、出来ると思う。
おれは、恭さんが気になる。好き……なのかどうかは、まだちょっとわからない。
でも、少なくとも憧れている。尊敬している。
その『尊敬している人』をぞんざいに扱われるのは、我慢出来ない。
だから……!
「恭さんみたいに素敵な人、おれは他に知らないってさっきも言いました。男だからって、関係ないです。もっと優しくしてあげてくださいよ!」
「……ったく、樋口に関わるとどんどんオレの心労が増える……」
頭を抱えてぼやいたかと思うと、神田さんは竹刀をおれにつきつけてきた。
「今日の練習が終わるまでに、オレから一本取れたら考えてやる。取れなかったら、今日の稽古後の清掃はてめえ一人でやれ」
「望むところ……!」
壁に立てかけておいた竹刀を力強く握り締める。
「千里くん、頑張ってくださいね!」
「恭さん……はい!」
恭さんの声援のおかげで、いつもより力が湧いてくる。
普段なら全く歯が立たない神田さんだけど、今なら一矢報いることが出来るに違いない。
なぜなら、今、おれは一人じゃないから。
「小休止終わり! よし……いつでも来い、速瀬」
「お願いします! いやあああああああ!!」
「……いけると思ったんだけどなぁ……」
モップを片手に、おれは人気のない稽古場で一人呟くのだった。
了